なぜ「キラキラネーム」が生まれたのかについての私の妄想

キラキラネームが話題になっているので個人的に思ったことをまとめてみたいと思います。とりあえずまとめたのですが、全然まとまっていないのでご注意ください。批判的な意見は大歓迎です。

そもそも名前とは

名前とは何か、みたいなことを言いだすと面倒なことになりそうなのですが、名前の役割を考えるとけっこう単純で、他のものと区別するという、それだけです。

同じようなものがたくさんあるとややこしくなってしまいます。ややこしくなると手違いとか問題が発生してしまうので、必要に応じて個別に名前を付けて、識別できるようにするわけですね。

つまり他のものと識別できるのであれば、名前は別に何でもいいんです。例えば、4本足でワンと鳴く生き物を日本では「犬」と呼びますが、英語圏では「dog」と呼んでいます。呼び方(名前)は異なりますが、その名前が表している対象は同じです。

このように、何らかのコミュニティーにおいて、お互いが認識できるのであれば名前は何でも構いません。あだ名は典型的だと思います。本名はあるわけですが、特定の仲のいいコミュニティーでは名前が変わる、というように。でも名前が変わったところで本質が変わるわけではありません。

何が言いたいかというと、認識できるのであれば名前なんかどうでもいい、ということです。

「キラキラネーム」の誕生

キラキラネームの定義はかなり曖昧だと思うのですが、一般的には変わった名前を指すようです。

この「変わった」の程度が問題になるのかもしれませんが、変わった名前というのは別に現代に始まったことではなく、昔からありました。例えば、よくネタにされるのは森鴎外の初孫、森眞章(まくす、max)とかでしょうか。森マックス、なかなかの名前です。

あと、同志社大学で有名な新島襄。「襄」というのは新島があとから付けたものなのですが、もともとは新島七五三太(しめた)という名前でした。名前の由来には諸説ありますが、念願の男が生まれたということで「しめた!(現代的に言えば「よっしゃ!」みたいな)」と両親が喜んだため、と言われています。ちなみに「襄」は「Joe(ジョー)」から来ています。

このように、例は悪いかもしれませんが、変わった名前は昔からありました。でも昔は変わった名前は変わった名前でしかなかったわけです。

私が思うのは、いわゆるキラキラネームのような名前が出てきたことではなく、変わった名前が「キラキラネーム」と呼ばれるようになったことが問題である、ということです。言い換えるなら、なぜ変わった名前を「キラキラネーム」という名前を付けてまで、他の名前と区別しなければならなかったのか、ということです。

(先ほども書いたように、名前は識別できれば何でもいいのです。そういう意味で私はキラキラネームでもいいと思っています。正確に言うならば、どっちでもいい、という感じです)

なぜ「キラキラネーム」が生まれたのか

となると、なぜ「キラキラネーム」という名前が付けられたのか(言い換えれば、なぜ「キラキラネーム」という概念が生まれたのか)、という疑問があります。

これについてしばらく考えてみたのですが、私の結論としては、自己の形成に失敗してしまった人が現代には多いからではないか、ということになりました(批判的な意見は大歓迎)。

唐突に思えるかもしれませんが、中二病になる人が現代には少ないらしいです。中二病の定義というのもなかなか難しいですが、一般的には正しいとされていることへの反抗的な態度、といった感じでしょうか?

中二病は良くないものという評価が多いのですが、中二病というのは自己の形成に非常に重要な役割を持っています。というのも、自己は何らかの反発から生まれるからです。生まれた瞬間から自己が確立しているなんてことはなく、生きていく中で何等かの価値観を得て、それに対して反発し、価値観とそれへの反発を統合して自己が確立します(テーゼ⇒アンチテーゼ⇒ジンテーゼ)。

これは尾崎豊が分かりやすいかもしれません(声の技術を高めるだけでは声優にはなれない)。尾崎豊は、要は学校で変なことをする、という歌詞を出したわけです。これは学校という正しいとされる価値観が前提にあって、それに対して気に食わないという反発が起こり、その結果として学校で変なことをします(中二病)。

これを最近の人が聞くと「家でやればいいじゃん、そしたら先生から怒られることもないのに」と言うそうです。これですよ。尾崎豊は学校という前提があって、それに反発するには学校でないと意味がないんです。これを理解できないのは、やっぱり前提がないからだと思うんですね。

今までの時代には、その時代を代表するような、正しいとされる価値観がありました。戦後間もない頃は欧米に追い付け追い越せ、国のために働け、というようなものがあったんですけども、現代ではそういった1つの価値観がありません。さらにネットなどの影響で価値観が多様になっています(それ自体は悪いことではないんですが)。

つまり前提となる価値観がなく、それゆえ価値観に反発することができなくなり(さらに中二病、つまり反発は良くないという価値観がある)、結果として自己の形成ができない、というような状態が現代です。

自己がないと名前に頼らざるを得ない?

自己がない人は自分で評価を行うことができず、何等かへの評価や自己肯定といったものは他人に頼らざるを得なくなります。そのため、物事を損得(つまりお金という分かりやすい数値)でしか判断できなくなったり、他人が良いとするもの(例えば、就活は有名な大企業、大学は高偏差値)しか良いと思えないということが起こります。

このようにみんなが他人を評価の基準に設定することで、みんなが同じになるのですが(もちろんそんなことはないのですが、なにぶん分断が進んでコミュニティーが狭い)、こうなると自分の存在を維持することが困難になります。なぜなら自分である必要がないからです。しかし自分を自分として肯定もしたいわけですね。

かといって自己の形成はできないわけですが、では手っ取り早く他人との差異を見出すとすると、もはや名前しか残らないのではないか、というのが私の考えです。

(そういえば、実は浄土真宗とキリスト教は類似点があまりにも多いんですが、それに対して有名な神学者が「両者の言っている内容は全く同じだ、特殊性はもはや名前でしかない」みたいなことを言ったことがあることを思い出しました。そうなってしまうのかもしれません)

また、偶然かどうか知りませんが、現代には名前を間違えられるとキレる人が非常に多いように思います。これは私が大学生の時にお世話になっていた先生も同じことを言っていました。

先生曰く「そこの緑の服を着ている人、この問題分かりますか?」と聞くと、その場でも何でもないのですが、後日アンケートに「人の名前はしっかりと覚えてください」ということをダーっと長文で書いてくることがあるそうです。アンケートというよりも抗議文のようになっているらしい。

これは他にも、ちょっと忘れてしまったんですが、中島義道さんだったと思うんですが、あるエッセイ(新書だったかな、すみません曖昧で)で、生徒の名前を間違えて手紙を出したところ、最初に白紙のはがきが1枚送られてきて、その後に名前を間違えたことに対する抗議文が送られてきたそうです。

私もまだ25歳なので、昔のことについて熟知しているわけではありませんが、昔は名前を間違えられても、多少注意するくらいで、抗議文を書いてまで反発してくるような人はいなかったはずです。

なぜここまで名前にこだわるようになってしまったのかというと、やっぱり自己があやふやになってしまっているのではないか、と思ってしまいます。

「キラキラネーム」という名前・概念を作った側はキラキラネームに反対する側だと思うのですが、そうなってくると、キラキラネームを子どもに付けることよりも、「キラキラネーム」を叩いていることの方が闇が深いような気がします。

中二病について補足あとその他
感受性を高めるためにできることって何だろう?モノとコトについて
声の技術を高めるだけでは声優にはなれない
実は全然違う!批判と非難の違い 
なぜ同じような人が集まるのか成長していくために