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きっかけへの反論は反論になっていない



本当にどうでもいいことなんですが、きっかけに反論をして、反論した気になっている人がいるようです。論文とか、まあ別にコラムなりなんなり何でもいいんですけども、主張に入る前に著者がなぜそういうことを考えたのか、きっかけが書いてあることが多いです。このきっかけに反論をして、主張全体に対して反論できたと思っている人がいます。きっかけはきっかけであって主張とは全く関係ありません。

日常会話に例えたらこんな感じでしょうか。

Aさん「昨日、3日前に公開された映画みたんだけど面白かったよ。そういえば、前に貸してたDVDそろそろ返してくれる?」
Bさん「その映画が公開されたのは2日前だよ。だからDVDを返す必要もないよね。」

ちょっと無理やりかな(笑)

このブログでも、誤解されたらイヤだから、「この導入はきっかけだから中身とは関係ないんですけどね~」みたいなことを一時期書いていたと思うんですが、書きながら何でこんなこと書いてんだろうなとか思ってました。たぶん、消してないからまだどっかに記事は残ってると思いますけど、まあいいや。

でも、そうでもしないと勘違いする人は確かにいるようです。やっぱり、前から書いていますが、記号的な思考をしている人は少なくないと思います。AI思考なんて言われたりもしますよね。典型的な例だと「AはBである」とかでしょうか。事実と定義がわからない。あるいはAとBを入れ替えても成り立つと思ってしまう。なんでもかんでも単純化してしまうから、一部が間違っていたら全体が間違っていると判断してしまう。それで自分では内容を判断することができないから、ソースに頼ることになる。ソースが信頼できるのであれば、その情報は無条件で正しいことになるようです。それは新興宗教とそれほど変わらないんですけどね。

私の偏見かもしれませんが、そういう人は陰謀論も好きな傾向があるように感じます。現実世界には意思みたいなものはなくて、当然ながら意味もないのですが、最初から主観から入ってしまうと現実世界がそういうのを持つようになり、そしてそれでは変なことになるから、秘密結社みたいな漠然とした存在を持ち出して、それが世界を操作している、みたいな思考をするようになってしまいます。記号的な思考と、主観と客観の混同は無関係ではないと思うんですよね。