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危機感がない?危険かどうかの判断も他人が基準?

電車の中で

正月は色々なことがありますね、最近ブログの更新が多いですけども気にしない。

電車に乗って空いている席に座ろうとしたところ、斜め前に泥酔してイスにふんぞり返って寝ている人がいました。寝ているのに瓶はしっかりと持っていて、でも中身が床に垂れている状態です。まあ、酷い状態でした。

私は、その人が起き出して騒いだり暴れたりしかねないなと思い、すぐに席を立って別の車両に移ろうとしたんですけども、その後すぐに周辺に座っていた他の人(2人)も席を立って移動されました。

これについてです。

危険かどうかを判断できない?

これってどうなんですかね。私の想像でしかないんですけども、自分にとって危険かどうかくらい自分で考えろと思うんですけども。色々な選択を他人に委ねている人は今では珍しくないとは思いますが、危険かどうかも自分で判断できないのはさすがにマズいだろうと感じました。

いやもちろん、そのふんぞり返って寝ていた人は、全然危険でも何でもなくてたまたまそうなってしまっただけかもしれませんし、心の中では申し訳ないと思っていたのかもしれません。それについては確かに何とも言えません。

ただ危険かもしれないという可能性は感じられるでしょうし(もちろん可能性にも度合いはありますので何でも間でも逃げればいいというわけではないですが)、危険を感じたのであればその場から立ち去ればいいのであって(介抱などはまた別の問題なのでここでは書きません、一応報告はしたけども)。

もし仮にその人が暴れ出したとして、それで自分が危害を被っても、それは自分にも責任はありますからね。そこから立ち去るという選択もできたのですから。その選択をせずに、その場に留まり続けるという選択をしたのも、それは自分ですよ。自己責任ですからね。もちろん全ての責任が自分にあるわけではなく暴れた方が悪いのは言うまでもないことですが、避けられたものを避けないのはこれはこれでおかしいことです。

現実を知らない?

これは飛躍しすぎているかもしれませんが、どうも現実を知らない人がいるのではないか、というのを最近感じています。というのは「現実」という言葉の使い方がおかしいからです。

前にも書いたと思うんですが、例えばSNSに関するコラム記事などです。「大学生のSNS事情!」みたいな感じのタイトルの記事って割とありふれていると思うんですが、その中で「現実」という言葉の使い方が変で、現実と虚構が並列の関係として扱われています。

スマホの外の世界が現実で、スマホの中で展開されているSNSが虚構です。またTwitter、Facebook、ゲームなどなど複数の虚構が並んでいて、その虚構と同じように現実があると考えているようです。

しかし実際には、現実と虚構の関係というは、現実の中に虚構があります。Twitterなどは確かに虚構ではありますが、その虚構というのは現実の中で展開されているのであり、現実と虚構は完全に切り離すことはできません。現実と虚構が並列関係にあるということは、現実と虚構は分離可能だと考えているのであり、これがおかしいのです。

分離可能と考えると、例えばテレビで起きていることが虚構として認識されてしまうようなことが起こりえます。今もどこかで戦争やテロといったことが起きており、それがテレビに報道されるわけですけども、それを見ても自分が存在している現実で起きていることとして認識することができず、虚構として判断してしまいます。もちろんそういった人でもテレビの報道がウソだとは思っていないはずですが、現実認識がおかしいために、報道の捉え方が歪んでしまいます。Jアラートが鳴っても笑ってられるのはいい例です。

事件や事故はテレビの中で起きているとでも思っているのかもしれません。だからこそ自分の身の回りで何かが発生することを考えることができないのではないかと思うのです。

最近では野次馬が事故の様子をSNSに上げることがたまに問題になることがありますが、この動機としては承認欲求とか何とか色々あるのでしょうけども、どこかでそれを虚構として認識したいのではないか、という気がしないでもありません。

客観と主観

そしてもう一つ、客観と主観の問題です。現実の捉え方がおかしいということは客観を知らないと考えることもできるだろうと思います。というのも、現実=客観だからです。

どうも客観的に考えることを、セカイ系に出てくる無気力な主人公のように傍観者的な立場で物事を考えることだと思っている人がいるように感じるのですが、それは主観的な考え方です。

真に客観的な情報というものは存在しません。なぜなら客観的というのは情報の性質ではなく、態度の問題だからです。よく新聞は偏っているから役に立たないという意見がありますが、新聞は偏っているのが普通です。そもそも、現実に起きていることの何をニュースとして取り上げるのかという時点で既に偏っています。だからこそ普通の人は複数の新聞を読んで客観的であろうとしているわけです。

また客観的に考えるためには前提として主観が必要です。一度に認識できることは限られているのですから、あらゆる視点から物事を捉えるしかありません。この視点を動かすというのが主観にしかできないものであり、より具体的に言うならば、疑問を持つということです。

さいごに

あくまでも私の想像に過ぎないのですが。

現実を正しく認識できていない人がいる。現実が分からないから客観も分からず、同時に主観もない(ないことはないけど認識できていない)。主観が曖昧で自信がなく、また現実に自分を位置づけて考えることができないために、あらゆる判断を他人に委ねざるを得ない。他人に判断を委ねることも自分がした選択であるけども、その自覚がなく、自己責任が分からない。