感受性を高めるためにできることって何だろう?モノとコトについて

感受性が欲しい

私は表現ということに興味があります。興味がある、というよりもコンプレックスといった方が適切かもしれません。

私は何かを書くのが好きなのですが(ブログは手軽に書けるので好きです)、書くというのも1つの表現です。もちろん記号として書いているわけではなく、伝えたいことを文字に変換して、表に出しているわけです。

つまり、書くため(表現するため)には前提として伝えたいものがあるのであり、伝えたいものというは自己と密接に関わってきます。昨日キラキラネームについて記事を出したのですが、これは私の自己に関するコンプレックスがよく表れているように思います。自己の形成に失敗し、評価を他人に委ねてしまった者は、表現することができません。

これを解決するためにはどうすればいいのか、よく分からないのですが、でも何となく感受性というものが重要であるように感じられます。だから感受性が欲しい。

感受性を高めるには?モノとコトについて

個人的に、感受性を高めるための1つの方法として、コトを理解することが挙げられるのではないか、と考えています。コトはモノと対応します。またモノとコトは正しいと本当に対応します。

モノが分かるというのは、対象を時間と空間から切り離すことです。例えば、平らな地面にある出っ張りを「山」と名付けることで地面から出っ張りを切り出すことができます。それに対し、コトが分かるというのは、関係性を切り出すことです。例えば「私」というのは脳だけで成立しているのではなく、顔や胸や手や足などがあって、またそれぞれ1つ1つ細胞があって、しかも細胞はどんどん変化している、といった関係性の総合が「私」です。日本的にいえば「縁」というのが分かりやすいかもしれません。

また正しいというのは矛盾を含みません。それに対して本当は矛盾を含みます。例えば、危険な道路があるとします。危険をなくして安全な道路にするためには、道路整備をして、道路を整える必要があります。これが正しい。しかし実際に道路整備をすると道路利用者が安心して注意が散漫し、事故が増えてしまった。これが本当。

世界は多様性に満ちていますが、多様性は矛盾から生まれます。原因が結果となり、その結果が原因を変えていきます。これの連続が多様性です(コト・本当)。その多様性の部分を、時間と空間から切り離して説明をできるようにするとモノ・正しいになります。

そもそも人間が生まれる前はコトしかなかったのだと思うのですが、人間は関係性だけのモヤモヤしたものは嫌うようです。例えば物の怪のように。だから不安をなくすためには、分けて理解する必要があるのだと思います。

現代ではモノでないと受け入れられません。なんかよく分からないけどこうなった、では受け入れられず、これはこういうことなんだ、と説明をする必要があります。これが感受性を阻害しているのではないか、というのが私の考えなのですが。

つまり感受性を高めるためには、モノだけでなくコトも理解できるようにする必要がある、ということです。もちろんコトだけだと原始人みたいなことになってしまうのでモノとコトの両方が必要なのですが、現代はモノに重点が置かれ過ぎているのではないか、と思います。

実践としては、正しいよりも本当を先行させることです。昨日のキラキラネームの記事で書いた中二病です。学校という正しい価値観がある、でも本当はこうしたい。その「本当は」を重視する、ということです。くどいですが、本当だけを重視すると、原始人というか猿みたいなことになってしまうので、バランスは重要なんですけどもね。このバランスが難しいのですが。

柳田国男の小さい頃の体験なんですけども、地元の洞窟を進んでいくと祠があったそうです。その祠は開けたらダメ(正しい)なんですけども、どうしても気になって、ダメと分かりながらも開けたんですって(本当)。そしたらそこに、綺麗な石だけが置いてあって、落胆したそうです。その後、ふと空を見たら、快晴なのに星がたくさん見えたと。そして「こんなのおかしい、あり得ない」と思うと、普通の景色に変わった。こういう体験は、正しいよりも本当が先行したからこそ起きたんじゃないか、って私は思っています。

最後に

あまり関係ないかもしれませんが、越前屋俵太さんというコメディアンを最近知りました。面白い方ですね。なんかこの前パリでやらかしたそうですが、笑の力を再認識させられたように思います。自分という確固たるものがあるから、こういった活動ができると思うんですけども。

さらに興味深かったのが書道もされているということです。作品をじっくりとは見ていないんですが、ご本人のtwitterにちょろっと出てたかな?ちゃんとチェックできてないんですが。

実は私も書道をしていました。大学までやってたんですけど、大学でイヤになってやめたんです。というのも表現ができなかったので。それで最後の最後に描いた作品がこちら。

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一応言い訳しておくと、小筆の作品は初めてだったのと、この作品の前の作品を描いてからかなり時間が空いたのと、この作品を書いている時はやる気がなかったので、かなり下手な字になっているのですが。そもそも一文字一文字ではなく全体を見るものですから、木を見て森を見ずにならないように、とか言って…。

これは千字文といって、昔の中国で漢字の練習として作られたものです。実際に1,000文字あって(もうちょっと多いんですが)、私はこれを2×8という、横60cm、縦200cm以上の紙に書いています。1枚書くのに8時間かかり、どこか失敗したら最初からやり直しになるというバカみたいな作品です。途中でやる気失せて本当にテキトーに描いたんですが…。

まあ別に作品の出来はどうでもいいんですけど、なぜ私がこれを描いたのかというと、自己批判のためです。作品を描いてるなかで、表現ができないんですよ、自分がないので。自分がないことを認めたくなかったんですけども、自分がないことには気付いていて。だったら、自分が関係ない作品描いたらいいんじゃね?と自暴自棄になって描いたのがコレです。

描いた時は周りに褒められました、頑張ったね、すごいね、って。それは確かに褒めてくれていたと思います。しかし私にとってはいい感じの皮肉になっていて、またその皮肉が気持ちよくも感じられました。ひねくれていましたね。

この作品はいい感じに私の象徴のような存在になっていたので保管していたのですが、そろそろ捨てた方がいいかもしれないな、と感じました。

それにしても越前屋俵太さんは面白い活動をされていますね。これからチェックしていきたいと思います。越前屋俵太さんからは絶対に学ぶべきものがあると感じています。

中二病について補足あとその他 
なぜ「キラキラネーム」が生まれたのかについての私の妄想
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