書いてお金を稼ごうと思った理由と書くのが嫌いな理由

よくよく考えたらこのブログで私の本業を書いたことがなかったような気がするんですが、ライターじみたことをしています。書いてお金を稼いでいるわけですね。そして今まではイヤと言いながらも生活に最低限必要な分しか働いていなかったのですが、大学院に行かなければならないということでお金が必要になり、今まで以上に働かなければなりません。私は怠惰なので働きたくなく、要はここではその愚痴を書きたいんですけども、愚痴では体裁が悪いので、タイトルの通りです。

書くことで稼ごうと思った理由

楽だからです。

(「これからどうしていくか」で研究と執筆をしたいと書きましたが、これは別です。研究・執筆は表面的には書くという仕事に見えますけども、書く内容、前提が重要なのであって、書くこと自体は全体から見れば僅かなものです。まだ始めていませんが恐らく、えらい苦労するだろうと思います。今からでも怖いくらいです)

なんだかんだで、どんな働き方であったとしても表現をしなければなりません。営業だろうが企画だろうがマーケティングだろうがプログラミングだろうが、全部表現です。また表現するためには表現の方法を学ばなければなりません。営業だったら営業トークが必要ですし、プログラミングならプログラミング言語が必要です。

それに対して書くということは、常日頃当たり前のようにやっていることであり、特殊な技術は必要ありません。さらにペンと紙さえあれば働くことができます。こんな楽なものはありません。現代においてはパソコンで書いてネットで提出する形になりますが、キーボードを押しただけで文字が入力できるんですし、場所も関係ありませんから本当に便利なものです。

また、書くといっても私の場合は小説のような崇高なものを書いているわけではありません。必要なのかどうなのかよく分からない記事を書いています(案件をいただいているのにこういう表現は良くないのですが。しかし案件を出している本人が一番それを理解しているだろうとも思います)。そのため特別な書き方というのもありません(それでも多少の苦労はあるんですけども)。

書くのが嫌いな理由

これは複数あります。色々あるんですが、とりあえず2つ挙げておきたいと思います。

書きたくないことを書かなければならない

これはあくまでもお金をもらう場合の話です(ブログを書くのに抵抗が少ないのは思いついたことをそのまま書いているからであって)。

できる限り自分が書きたいと思えるような案件を受けるようにはしていますが、必ずしもそういう案件だけを受けられるわけではありません。特に、お金を貯めなければいけなくなってしまった今においては、これは大きいです。

案件を発注する側のことを考えたら当然なんですが、経費よりも大きい利益を出さなければならないわけです。利益を最大化できる文章はどんな文章かといったら、当然ながらターゲットはそういう層になるわけです。

だから、失礼を承知で言いますけども、こんなのあまり役に立たないんじゃないかなぁ、というようなことを思いつつも書かなければなりません(まあそういうことを言い出したらこのブログの存在意義なんか笑ってしまいますけども)。発注者が一番理解しているでしょう、だからこそ私のようなところに回ってくるわけです(それはそれでありがたいのですが複雑です)。

例えば、私は書いたことはありませんけども、代表的なものとして考えられるのは芸能人に関するニュースとかでしょうか。誰誰が不倫した、とかどうでもいいじゃんって思うんですけども、それを知って「うわー!あの人とあの人が!?」みたいに喜ぶ人もいるわけです。それで気分が晴れるのであれば「役に立った」と言えるのかもしれませんが、どうなんですかね。こういうエンターテインメントも大事なのかもしれませんけども、何か違うような気がするんです。

「役に立つ」というのは一体何なんでしょう?こういったことはどんな仕事にでもあると思いますが、世の中の働いている皆さんはどのように考えているのが気になります。

言葉の特性

言葉の特性といったら大袈裟なんですが。考えていることをそのまま文章にできるわけではありません。言葉は学術論文のような正確性が求められるところでも使われているため正確といえば正確なんですが、必ずしも正確には表現できないところもあります。

どう表現すればいいんでしょう…。例えば、「山」は存在しない、と言った時に多くの人は「そんなわけなかろう、そこら中にあるじゃないか、富士山も山じゃないか」みたいになると思います。全くその通りです。しかし「山」と呼ばれているそれは、平地にある出っ張りのことを「山」と呼んでいるのであって、境界線があるわけではありません。つまり、出っ張りのことを「山」と呼ぶことで、平地から出っ張りを切り取っているわけです。関係性が分断されてしまうわけです。

また、考えていることを言葉にするわけですが、「考える」というのがどういうことなのかよく分かりませんけども、「考える」の全体像があるのか分かりませんが、言葉にするということは考えの部分を切り取っているんだと思うんです。よく「言葉にしてスッキリした、考えがまとまった」と言いますけども、本当にまとまっているのかな?よく分からないところをそぎ落としたのに過ぎないんじゃないかな?本当に大切なことはその「よく分からないところ」なんじゃないかな?と思うんです。語弊のある表現かもしれませんが、言葉にすることで認識が狭くなるのではないか、と。

それから、言葉には方向があると思います。「⇒」ですね。AがあってBがあってCがある、というような感じです。ABCを並列関係として記述することができません。もしそれを記述できる言葉があるとすれば、広がりのある波のようなものになるような気がしています。

これを言い出すとまた紛らわしくなるのですが、私は、存在が関係を生むのではなくて、関係が存在を生むと考えています。デカルトだか何だか知りませんが、彼は物事を細分化するように指摘し、それが今の科学になっていると思います。それで部分を詳細に知ることができるようになりました。科学が重要なのは間違いないことだと思うんですが、これだと全体が分からないんですね。だからどっかで統合する必要があるんじゃないか、と。

また科学は言葉を使いますから、統合には向かないと思っていて。いや、言葉でも統合はできるんですが、抽象度を上げる必要があります。例えば私は京都府に住んでいますが、これを関西に住んでいる、日本に住んでいる、アジアに住んでいる、地球に住んでいる、宇宙に住んでいる、というような感じです。しかしこれでは記述していないも同然です。

別にここに宗教を持ち出す必要はないと思いますが、アンラーニングかなぁ、と。またその1つとして、西洋的な瞑想、あくでも東洋的ではなくて西洋的な瞑想が役に立つかもしれないなぁ、と思っています。

長くなりましたが、言いたかったのは、言葉に頼るほど認識が凝り固まってくるので、一度言葉から離れた方がいいのではないか、ということです。

最後に

本当に働きたくないです。働きたくないというのをずっと考えているとこんなことまで考えてしまうんだなぁ、と笑えてきます。言い訳を作ることに関しては、人間は天才的になれますね。