もしかして言葉の概念を持っていない人がいるのでは?

炎上している記事とその反応を読んでいて思ったのですが、言葉の概念を持てていない人がいるのではないかな?という気がしてきました。ちょっと、というか、全然まとまってないんですけども…。

無理のある解釈がなぜ起こるのか

人間ですから言葉を読み間違えて解釈を誤ったり、立場などによって解釈に幅が生まれたりするのは当然のことだと思うのですが、明らかに「そんな解釈はできないだろ」みたいな解釈をする人がある程度いるように思います。

それで、何でそういうことになるのかなぁ、と炎上している記事を読んでいて思ったんですが、もしかすると言葉が持つ概念を理解できなくて、(どういうんだろうな)記号的な考え方をしているのかもしれない、というようなことを思いつきました。

言葉が持つイメージというのが伴っていないために、言葉を表面的にしか捉えることができず、言葉を単なる記号として考えているからこそ、よくわかんない解釈が生まれてしまうのかもしれません。つまり「言葉の理解」=「言葉の定義の理解」になっている人がいるのではないか、ということです。

ちょっと分かりにくいかもしれませんが、「言葉」をラベルとするならば、「言葉の定義」はラベルをどこに貼るかという指示であり、「言葉の概念」はラベルが貼られたものです。言葉は単なる記号ではなくて、大切なのはその言葉の中身(イメージ)であって、それが言葉の概念です。だから言葉の概念を知らずに言葉を使うと、その言葉は単なる記号になってしまいますし、言葉を使う思考も記号的なものになってしまいます。

言葉は不完全です。しかし自分が思っていることテレパシーを使って相手の頭に直接伝えることはできませんから、一旦は誰もが共通に使っている言葉という形に変換します。つまり重要なのは言葉そのものではなくて、言葉が指している中身であるわけです。

しかし中身(概念)がないのであれば、自分の中にあるものしか思考の材料として使えないので、文章に触れたときに自分がした解釈のみが正しいと思わざるを得ません。なので「あんたの言ったことはこうだ!こうに違いない!!」とめちゃくちゃなことになるのだろうと想像しました。

自分の都合のいいようにしか解釈ができないことになります。たとえ「いや、そういう意味ではないのです」と説明しようとしても「いや、そんな意味にはとれない、こうとしか読めない」となってしまいます。言葉に概念が伴っていなければ、概念の拡張というのもできません。新たな概念を取り入れることができないということです。

記号的な思考

概念が伴っていないのであれば、言葉を記号的に使わざるを得ないので、言葉を使った思考というのも記号的になり、形式的に文章を判断することになります。

例えば、書いてあることをそのまま読み取ってしまいます。文章にはかならず文脈や筆者の立場というものが反映されますが、それが理解できません。文脈や立場が異なれば全く同じ文章でも意味が180度変わることもあるのですが、「ここに書いてあるじゃないか!」と言い張って、言葉の意味を理解しようとしない(できない)のもこれが原因だと思います。

逆に書いていないことに関しては間違いになってしまいます。「そんなこと書いてないじゃないか!」とか言って、書いていないことについて自分で情報を補うことができません。普通に考えたらあらゆる情報を書いてる文章なんか存在しないわけですが、部分的に「書いてないじゃないか!」ということは他の箇所については補えたのであり、結局のところ「私の知らないことを書くな!」と同義ですから、傍から見れば非常に滑稽です。

また言葉の概念を無視して、表面的に記号として捉えるために、必然的に文章を単純化せざるを得ず、文章の本質的なところが欠落してしまうことが考えられます。それに対して、自分が理解できる範囲での、自分にとっての正しく都合のいい文章理解が行われ、本来の文章とはかけ離れたものになります。さらにそれに対しての反論が展開されてしまうと、筆者からすれば全くの的外れな反論に見えてしまいます。

さいごに

あくまでも私が「もしかしてこうなのかな?」と思っただけのことなので実際のところはどうなのか知りませんし、たぶん確かめようのないことだとは思うのですが、「なんでそんな解釈になるんだ…」というような解釈が生まれる背景を考えてみると、ちょっとは怒りというかショックというか、そういうのが和らぐかな、と思いました。