nancolu

一般人の個人ブログです

「人生に意味はない、虚しい」と言わなければ気が済まない



いつも同じようなことを書いているのですが、以前に変な記事を書いたものですから、このブログに「人生 意味ない」とか「人生 虚しい」というワードで検索して来る人が多いです。自分でそういうことを書いておいてなんですが、これらについて思うことを簡単に書いてみたいです。

人生に意味はない、虚しい…

たぶんおそらく人生に意味はないのでしょう。意味はないというのは、生まれる以前から持っている性質としての意味です(生まれた後に「自分はこうしたい」とか言って意味を作るぶんにはあるでしょうけども)。「運命」とか何かそういうのもないでしょう。

そして人間は生まれた瞬間から死ぬことが確定しています。いつ死ぬかはわかりませんが、死ぬのは確実です。なんか知らないけどいきなり生まれてきた。しかもその人生に意味はなく、ただ死ぬだけである。虚しい…。

なぜ「人生に意味はない」と言うのか

ここで考えたいのは、人生に意味はないと思っている人は、なぜ「人生に意味はない」とわざわざ言うのか、ということです。

まあ、私もこのブログで「人生虚しい…」みたいなことを散々書いているので自分でもよくわかるのですが、結局のところ、「人生に意味はない」とわざわざ言わなければ気が済まない人は、どこかで「人生には意味があるのではないか」と思っているのでしょう。言い換えれば、人生は無意味であると本当に思っているわけではないということです。

「人生に意味はない」というときは、たいてい何かに思い悩んでいるときです。例えば、仕事で残業ばかり、給料も安い、ミスをして上司に怒られてしまった、こんなことをずっと続けていくのだろうか、私の人生は一体なんなんだろうか、人生に生きる意味なんかないんだ、虚しい…、というような感じだと思います。

だから「人生に意味はない」は現実で起きているイヤなことからの一時的な逃避や解放を願っているような状態です。そしてそこには、問題のない、理想的な状態というのを無意識的にでも仮定しています。理想的な状態を得たいけど、実際に得るのは困難なように思われる、それが「人生に意味はない」という形で表現されるのでしょう。

「人生に意味はない」の本当

人生に意味はない、というのは、前提として「人生の意味」という概念を想定しています。「○○はない」と何かを否定するためには、前提として否定する対象が存在していなければなりません。また存在すると言っても実際に形として存在している必要はなく、例えば「エーテル」のようなものです。実際に存在するわけではないけども、概念として仮定することはできますが、これも1つの存在です。

なので「人生に意味はない」と本当に、当たり前のように考えている人は、「人生に意味はない」と言うことがありません。「人生の意味」という概念そのものを考えないからです。

「人生に意味はない」と本当に考えている人、つまり「人生の意味」という概念をそもそも持っていない人からすると、「人生に意味はない、虚しい」と言っている人が奇妙に見えます。また、その発想に過ちがあることも分かります。

しかし、その過ちを指摘するのであれば、確かに「ない」のだけども、ないと言ってしまえば「人生の意味」を認めることになってしまうため、沈黙せざるを得ません。あるいは表現を変えて説明する必要があります。そのため「人生に意味はない、虚しい」と考えている人からすれば、その説明は非常に曖昧で、的を得ないような感覚に陥ってしまいます。ここが難しいところです。

何をしたらいいのか

「人生の意味」という概念を持っていない人は、あらゆるものは等価値であると考えます。いえ、そもそも価値というのを考えないのですが、あらゆるものに価値がないのであれば、それらは等しくなります(「人生に意味はない、虚しい」という人はどこかにその価値があると思っている、だから等しくならず、自分の人生が相対的に虚しくなる)。

ここで1つ疑問が生まれてきます。この人生において何をすればいいのか。あらゆるものは等価値であるということは、そこには無限の選択肢があることになります。そして、自分の人生には限りがあることは分かっているのですから、選択しなければなりません。ではその選択の基準はなんでしょうか。

あえて何もしない、という選択もあるでしょう。しかしよくよく考えてみると、何もしないというのは変です。「何もしない」ということを選択しているからです。結局のところ、選択しないことはできません。そして選択をしているのは「自分」です。

本当の問題点

私が本当に問題だと考えているのは、まさに「自分」です。私が思うに、自己形成に失敗してしまっている人が割と大勢います。自分というのを作れていないのですから、自分で選択をするということができません。ではどうやって選択するのかというと、自分の外に頼るわけです。

偏差値の高い大学に行くべきだ。上場している有名企業に就職すべきだ。年収は高い方が良い。お金を持っているほど幸福である。値段が高いからこの料理はおいしい。みんなが笑っているから面白い。いいね!がたくさん付いたから私はすごい。というように、客観的に判断できる数字やわかりやすい基準に頼りがちです。

本当は主観的に考えることが非常に重要です。しかし自己形成に失敗した人は、主観的に考えることを悪いことであると考えています。もちろん客観的に考えることが悪いことなのではありません、主観も客観も両方が大切です(ちなみに客観的に考えるためには前提として主観的に考えなければなりません)。そして、もっと言えば、彼らは主観と客観が未分化です。

数千年前から人間は生きる意味について考えてきました。それは、「世界ってなんだ?自分ってなんだ?」という純粋な疑問からであったと私は思っています。少なくとも、生きることを前提にしていたと思います。しかし現代におけるその問いは、前提として「価値」という概念があり、またその価値を持てない「私」に生きる権利はない、つまり、意味を見いだせないなら死んでよい(あるいは「べき」)、というように、問いそのものは同じでも、その性質は異なっているように感じます。

私はその原因として、メディアの発達と教育の在り方が挙げられるんじゃないかと思っています。メディアの発達で現実と虚構の区別がつかなくなり、教育で考える力ことが難しくなっています。「人生に意味はない、虚しい」と言って悩んでいる人は多いと思いますが、それは個人的な特殊な問題ではなくて、現代の構造的な問題だと思います。

こういう言い方をすると「自分は特殊だから悩んでいるんだ」と考えている人には失礼かもしれませんが、アニメ、マンガ、ラノベ、Jpop、純愛、宗教といったもののブームを考えると、決して個人的な問題とは思えないです。

さいごに

こんなことを言ったら、なんか変な感じもしますが、「人生の意味」という概念がそもそも必要ないと言っても納得できる人ってそんなにいないと思うんですよ。なのでとりあえずは「人生の意味」というのと気が済むまで格闘したらいいと思うんです、認識にも段階が必要ですし。おそらく苦悩というのが伴うでしょうけども得るものはあるんじゃないかな、と。ただ、その際もまずは生きることを大前提として、その上で考えるべきです。まずは生きないと考えることもできませんしね(笑)