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「一神教は非寛容で多神教は寛容」なのか?



「一神教は非寛容で多神教は寛容」

前から言われていることですが、最近またそういうのが増えてきているような気がします(前に書いたのはこういうことです。実際に増えているかは関係ないです、きっかけです)。この前もシリアで色々とありましたもんね。確かに「一神教は非寛容で多神教は寛容」というのはわかりやすいのですが、わかりやすいからこそ危険でもあります。本当に一神教は非寛容なのでしょうか?多神教は寛容なのでしょうか?

一神教は非寛容?

非寛容な一神教と言えば、なんとなく、多くの人はイスラームをイメージしているような気がします。しかし、イスラームには「啓典の民」という考え方があり、キリスト教やユダヤ教と共存してきた歴史があります。また、一言でイスラームと言っても色々あって、リベラルなイスラームというのもあります。たぶん、過激派を見て非寛容だと言っているのだろうと思いますが、イスラームの一部だけを見て、それをイスラーム一般に当てはめるのは無理があります(就活生が「面接だけで自分の何が分かるんだ」と愚痴を言うことがありますが、イスラームの一部だけを見て全部を知った気になるのは良くないです)。それに、ムスリムの中には、自分の子供に「イーサー」とか「ムーサ―」などの名前を付けることもあります。イーサーはイエスのことで、ムーサーはモーセです。キリスト教やユダヤ教が嫌いなら、こんな名前はつけません。

イスラームだけでなく、キリスト教やユダヤ教においても他宗教との共存を考えることは多くあります。またそれは、3つの一神教だけでなく、多神教に対しても同じです。もちろん、保守的な考え方をする宗派もありますが、それは一部であり、また暴力に至るのはさらにその一部です。くどいですが、一部だけを見て、全部を理解しようとするのは無理があります。

多神教は寛容?

多神教は寛容であるとよく言われます。よく引用されるものとしては、2003年元旦の朝日新聞の社説「『千と千尋』の精神で」があります。他には養老孟司の『バカの壁』、思想家としては梅原猛さんや山折哲雄さんあたりが有名だろうと思います。書いてあることは違いますが、だいたいは一神教よりも多神教の方が良い、みたいな感じになっています。

日本は多神教ですが、日本に公式に仏教が入ってきたとき、他所の神を受け入れたら日本の神様と喧嘩するからよくないと、仏教の受け入れを巡って争いがありました。法然や親鸞のような鎌倉仏教は弾圧を受けていますし、日本にキリスト教がもたらされると豊臣秀吉によって26人のカトリック信者が処刑されました(日本二十六聖人)。同志社大学は今でこそ偏差値の高い、京都を代表するキラキラした大学として人気がありますが、同志社が作られた当時は仏教からぼろくそに言われ、新島さんは僧侶から蹴飛ばされています。対戦中の日本は神道を強調していました(このときの神道は一神教的だったから違うという意見もあります。天皇を中心としている点では一神教的というのもわからなくはないですが、一神教は世界創造の絶対的な存在としての神であるので、明確に異なります)。日本以外では、仏教とヒンドゥー教との対立はそれなりに有名だと思います。

他にもいろいろとあるのですが、キリがないのでこのあたりにしておきます。要は、多神教だからといって寛容であるわけではないということです。多神教は非寛容であると言っているのではありません。寛容とよく言われる多神教にも非寛容と言える部分があるということです。それを踏まえた上で、理想としての「寛容」を自らのアイデンティティとしてしまうのは問題だと思います。

単純な善悪二元論

単純な善悪二元論は良くないと思います。多様性があるのだから、そこをしっかりと見ないといけないのではないでしょうか。