「生きたくない」の意味合いが違うのでは…

生きたくない

このブログでは何回も書いていて自分でも馬鹿らしく思えてくるんですけども、生きたくないわけですね。それから、これも何回も書いていて、くどいんですが、この「生きたくない」というのは「死にたい」という意味ではないです。誤解されると困るのでよりハッキリと言うと、自殺を考えているわけではありません。むしろなぜ死ななければならないのか、って話です。

生きたくないというのは要は生を肯定できないってことなんですが、まあ、簡単にざっと言うと、仏教でいうところの生老病死みたいなのがイヤなわけですね。死ななければならないし、いつかは病気になるだろうし、歳もとって体が動かなくなってきたりもするだろうし、そういうのがあるわけです。

現実というのを考えると、もうわけがわからないわけですよ。あまりに不条理だし自己矛盾はしてるし、わからないことだらけです。その現実は絶対であり、逃げることもできず、そしてその現実に存在している私、という恐怖といいますか。そういう現実を直視すると目をそむけたくなるわけで、その結果として「生きたくない」という、まあなんて言うんですかね、現実逃避というか、そういうふうになるんです、私は。

だから「生きたくない」を具体的にすると、死にたくない、病気になりたくない、歳を取りたくない、労働で苦しみたくない、大切なものを失いたくない、みたいな。これら全部を含めて「生きたくない」という感じです。まあ子供じみてますけどもね。

(そんな感じで今までに生きてきた人が苦悩とどのように向き合ってきたのか、というのに興味があって宗教文化とか芸術とかに興味があります)

生きたくない、というよりも?

私の場合は以上のような感じなんです。それで、この「生きたくない」なんですけども、生きたくないと考える人は、どうだろうな、あまり勝手なことは言ってはいけないのかもしれませんけども、少なくはないような気がするんですよね。

ただ、最近なんとなく気付いたんですけども(勘違いかもしれませんが)、他人の「生きたくない」は私の考えている「生きたくない」ではなくて、どちらかというと「生きていていいのかな?」みたいなニュアンスが感じられるような気がするんです。

これ(中間がない人が多い気がする)今日書いたんですけども、これを書いているときにも、あれ?って思って、

TwitterなどのSNSで、例えばですけども、「バンドの何々がカッコいい!」とツイートしたとします。それに対して誰かが「あのバンドはクソじゃん」とか言うと、言われた方は人格を否定された気分になってしまうわけです。これ若者に多いですよね。バンドに対してクソという評価をしているのに、そのバンドを好きな私がクソ、に変換されてしまうんです。

こういうのってYouTubeのコメント欄とかでも簡単に見つけられるんですが、本当に必死なんですよね。他人がどう評価しようが、それは自分には全然関係ないわけですよ。でも必死弁解するんですよね、そこにすごく違和感があります。なんか生にまでつながっているように思えるんです。「私は生きていて良いんだ」と言わんばかりに弁解していてですね、「生きていていいのかな?」と「生きていていいんだ」の葛藤が見え隠れしているような…。

私の勘違いだったらそれでいいんですが、もし仮にそうならば、生きるのに資格もクソもありませんから、ガッツリと生きればいいと思います。

セカイ系で思い出しましたが、エヴァンゲリオンのシンジ君ですね、「ここにいていいの?」「(無言)」「うわぁあああああ!!」みたいなのがありましたけども、そういう感じになっているのであれば、そもそも問うのがおかしくて、いていいの。中には邪魔だって言う奴もいるだろうけども、その邪魔という発言と自分の行動(選択)はまったく関係ありません。

最近の承認欲求とか「いいね!」もこの辺のことが絡んでるのかなぁ、と思うと(実際のところわかりませんけども)不安になります。