「生きる意味とは何か」に対してどうするか

死ぬことについて考えちゃう人

一般的には、あまり「生きる意味とは何か」とか考える人というのは珍しいそうです。実際にそんな統計あるのかは知りませんが、多分、多くの人は大人になるにつれて「そんなことを考えていても仕方がない、そんなのをいつまでも考えるのは幼稚なことだ」という考えをするらしいです。それも最もなことだと思います。

しかし中には、死についてどうしても考えてしまう人がいるのであり、また死ぬのであれば何で生きるのか、と考えなければ気が済まない人もいます。そして多くの場合、考えたところで答えは出ず、しかしまた時間が経てば同じことを考え、結局答えが出ずに…というのをひたすら繰り返すことになります。

私もそういう感じなのですが、私の場合は、そういった際に芸術鑑賞をしたりとか、たまには自分でも描いたりもします(人生はむなしい、バカらしい、何のために生きるの)。

そして案の定、今日もそんな感じになっていたのですが、今回は考えることをやめ、また芸術に頼ることもやめ、立禅をやってみました。

何だかんだで意味なんてものは解釈に過ぎないのですし、どんなに違った解釈を持っている人であっても、やっていること自体は変わらないわけです(こういう考え方はある意味危険でもあると思うんですけども)。そもそも現象しかありませんし、意味というのもその現象に対して後から付けるものですから、つまり実存は本質に先立つみたいな感じなんでしょう。それに人間にも限界はあります。にもかかわらず生きることに意味に考えてしまうわけです。

だったら人間という形式から逸脱すればいいじゃない、自然との調和というのをやってみればいいじゃない、それができるのかは分からないけれども近づくことはできるでしょう、ということで、太氣拳ではよく行われている立禅をやってみたわけです、まあ確かに胡散臭い感じはありますけどもね(多分ただの内省でよかったと思います)。

そして昨日シュバイツァーについて書いたんですが(シュヴァイツァーの生命への畏敬という考え方)、なるほど、「わたしは、生きようとする生命に取り囲まれた生きようとする生命であるという事実」です。

所詮「私」というのは関係性に過ぎないわけですが、自我を解体してみると(できてるのか知りませんけども)、生命への畏敬という発想が自然と生まれてくるように思われます。それは私を取り巻く関係への尊敬であり感謝です。

であるならば、私も働きかけをしなければならないのであり、それはいわゆる仕事という形につながってくるのでしょう。まあ、これも1つの解釈に過ぎないわけですけどもね。

自己とか何とかのその他

「私」は関係性の総合だ、というのは前から書いている通りです(中二病についての補足とその他自己について)。つまるところ、私は存在しないことになるのですが、しかし逆説的ではあるんですけれども、主体性を持つことは可能です。そして主体性というのは関係性を認めるところから生まれてくるのだろうと感じています。

また逆に、「私が」「私が」と言って自分の利益を優先することは「私」の存在を認めているのだろうと思うんですけども、そういう人を見ていると主体性がないように思われます(そんな他人のことを言えたものではないんですが)。例えばいわゆる真面目な人のような感じです。

シュヴァイツァーの生命への畏敬という考え方
人生はむなしい、バカらしい、何のために生きるの
感受性を高めるためにできることって何だろう?モノとコトについて
中二病についての補足とその他自己について
いわゆる真面目な人が嫌い
ミニマリストへの違和感と無駄なモノを捨てるコツ