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アイデンティティが欲しい!そんなときはグレてみよう



あまりこういうことを言ったら失礼かもしれないけども、ブログを書いている中で、自己形成に失敗してアイデンティティを持つことができないでいる人が少なからずいるように感じているので、それに対してどうすればいいのか、ちょっと考えてみました。

アイデンティティがない人の傾向

アイデンティティがない人は自分で価値判断をするのが難しいために、客観的に判断できる数字や権威といったものに頼りがちです。

例えば、大学は偏差値の高いところが良い、就職は上場しているところが良い、仕事の内容に関係なく年収は高い方が良い、値段の高い料理は美味しい、結婚している人は偉い、みんな笑っているから面白い、「いいね!」がたくさん付いたからすごい、体重は軽い方がいい、健康(という権威)的な生活をするのは正しい、あの人が言っているから正しい(2ちゃんの「ソースは?」も同じです、これが酷くなると新興宗教みたいになります)、といった感じです。

あと、ついこの前書いたんですけども(なぜミニマリストはミニマリストを自称するのか - nancolu)、ミニマリストも自己が曖昧になっているからこそ生まれたのだろうと思います。彼らはモノの総量という、客観的に判断できる数字が少ないほど幸せであると信じています。また、「ミニマリスト」というある種の権威(名前として)を使うことで、短期的にアイデンティティを獲得しようとしているのだろうと想像します。

また多くの場合、こういったものを他人に押し付ける傾向もあります。さっき着物の記事を書いたのですが(なぜ着物好きはウザいのか? - nancolu)、着物がアイデンティティとして機能していると、「私は着物という伝統を大切にしているのだ(あなたも伝統を大切にすれば?」というようになります。こうすることで自分の正しさを主張することができます。

他にも(twitterで見かけたのですがURLが分からない…)、ポテチみたいなのを食べている人に対して「油食べて何が楽しいの?」と言ったりもします。つまり、健康的な生活をしなさい、そして健康的な生活をしている私は正しいのである、ということです。

自己が曖昧だと「正しい」を求める

アイデンティティがない人、自己が曖昧になっている人は、「正しい」を求めます。先ほどの客観的に判断できる数字や権威といったものは典型的なそれです。

正しいというのは、一般的にはこう言われている、というようなものです。例えば、大学の講義には必ず出席しなければならない、というような感じです。

以前、某有名人がブログで、大学の講義を頻繁にサボっていたことを書いたことがあります。それに対するコメントとして、「誰にカネを払ってもらってるんだ」「講義に毎回出席するのは当然」というようなものがありました。

「誰のおかげなんだ」というのは権威を持ち出しているわけで、こうすることで自分の意見があたかも正しいものであるように主張できます。小学生が「やーい、先生にいってやろう」と権威を持ち出すのとそれほど変わりません。また、「して当然」というのも外部のルールを持ち出しているわけです。

おそらく、そういったコメントをした人は大学をサボることが「できなかった」のでしょう。

グレとはなにか―「正しい」と「本当」

自己が曖昧になっていることを自覚していて、かつそれを改善したいのであれば、できることはグレです。グレとは、本当が正しいに先行することです。

例えば、大学の講義に出席することは正しいことですが、本当は遊びたい、だから講義をサボって遊んでやろう、という感じです。

尾崎豊は典型的ですね。大人どもに腹が立つから学校でやらかすわけです。最近の人は、学校じゃなくて家でやれば怒られないのに、と言うらしいのですが、「本当」を理解できないからそういう発言になります。

言うならば、本当は主観です。また正しいは客観です。自己が曖昧になっている人は、主観的に考えることができないために、つまり本当のところを追求できないために、一般的に正しいとされている客観に頼ります。

自己が曖昧な人は中二病を経験していない

自己というのは必ず反抗から生まれます。何か既存の価値観がある、それが気に食わないから反抗する、そして新たな価値観を見出す、この過程が自己を作るためには必要です。

そして、一般的には、この反抗は子供のうちに経験するもので、それは中二病と呼ばれます。一般的には認められないと自覚しつつも、なおそれを求める態度、それが中二病です。

ただ、中二病はダサいと言われることが多く、また親も子供に対して大人の振舞を求める傾向があります。そのため反抗することが難しくなっています。尾崎豊に対して「家でやれば」と言うのは反抗が理解できていない良い例です。

親は子供に大人であることを求めるため、子供は十分に子供を経験することができません。しかし反抗することがないできないのですから、明確な自己を持つことができず、大人になれません。だから「若者」が出現することになりました。精神的には若者のままに、体だけが大人になってしまうと、いわゆる「ちょい悪オヤジ」のような現象が起きます。

(でも実際にはなかなか難しいところもあって、今の子供と昔の子供では事情が違います。昔の子供が反抗するといったら、庭にある木の枝を折ったりして、親にこっぴどく叱られるとかそんなんでした。しかし今では、簡単に力を持てるようになりました。従来、大人しかできなかったことが、今では子供でも簡単に出来てしまうために、子供を子供扱いするのが難しくなっているということです)

グレよう

自己が曖昧であることを客観的なもので埋め合わせようとしても無理です。しょせんは飾りに過ぎません。自己の確立は、考え方を変えれば出来上がるようなものではなく、ある種の体験です。なので、子供の内にやるべきだったことを今やるしかありません。

いい大人が「ちょい悪」みたいなことをしているのは確かにカッコ悪いです。しかし、「大学に行け、誰のおかげで行けているんだ」と親でもない外部の人間が権威を盾に正しさを主張する小学生よりかは、中二病に目覚めたちょい悪の方が遥かにマシです。

正しいではなく本当を意識してみよう。

補足

「グレよう」と言ったらすぐに「法を犯す」みたいに解釈する人が、少なからずいると思うんですが、当然ながらそういうことではないですからね。今までずっとこうやってきたけど、実は本当はこういうことがしたかったんだ、というようなものです。

例えば、親に医学部に行けと言われて勉強してきたけど、本当は文学部に行きたかったんだ、というような感じです。それで実際に文学部に行く必要はなくて(行ってもいいけど)、親の発言という正しさと自分はこうしたいという本当の間で葛藤することで、その先に自己というのが出てきます。色々な考え方はできるでしょうけども、もしかすると医学部を卒業したあとに大学院で倫理を学んで、生命倫理を志すこともできるかもしれません。

また、実際のところ、最初からそんな明確な本当があることも珍しいでしょうから、例えば友達からパスタ食べに行こうと誘われた時に「本当はラーメン食べたいなぁ」となって、そこから考える、というように小さな本当を積み重ねるのもいいかもしれません。こういうのって子供の内は当たり前のようにやっているんですが、やっぱり教育の影響は大きいと個人的には思っています。