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現実と虚構についてテキトーに

必ずしも虚構が悪いわけではない - nancolu

↑の記事に続いて、もう少し現実と虚構についてテキトーにダラダラと書こうと思います。フォーブスがモンハンを批判した記事がちょこちょこ上がってきていますね。それでやっぱり、そんなに数が多いわけではないけども、「現実とゲームの違いが分からない人はやらない方が良い」という意見がちょこちょこあります。この「現実とゲームの違いが分からない人はやらない方が良い」と言っている方が実は現実と虚構の区別がついていないんですけどもね。逆にフォーブスのその記事を書いた人は現実と虚構の区別はついていますよ。ついているから、ああいう発言になるんです。個人的にフォーブスのあの意見はよく分かります。確かに残酷です。そして同時に良いゲームというのもよく分かります。私はプレイしていませんが良いゲームだと思います。

本当にくどいほど書いていますが、現実と虚構の区別がついている人は、ある意味では現実と虚構の境界線が曖昧なんです。そしてそれは当然のことです。現実の中に虚構があるんですから。そして、だからこそ、現実で辛いことがあったときに虚構に触れて癒され、また現実で頑張ろうと思うわけです。反対に現実と虚構の区別がついていない人は、ある意味では現実と虚構の境界線が明確です。複数の独立する虚構があって、それと同じような形で並列するものとして現実を捉えているからです。だからこういう人は現実と虚構が結びついていないので、現実で辛いことがあったら虚構に逃げ込んで、また現実に戻らないといけないときは辛い状態になるんです。再び現実で頑張ろうという気にならない。

例えば雨が降っていて、且つ傘を持っていないとします。「最悪だぁ」と思いながら、びしょぬれになりながら歩いてると、ちょうど雨宿りできる小さな小屋があり、そこで休憩することにしました。現実と虚構の区別がついている人は、雨に濡れるという現実で疲れて、小屋という虚構で休憩することで、再び雨の中を頑張って歩こうと思えるのですが、現実と虚構の区別がついていない人は、小屋の中ではテンションが上がるものの、再び雨の中を歩くときは「最悪だぁ」となります。現実と虚構の区別がついていない人は、小屋という虚構に入っている間は、雨は降っていないことにしてしまいます。本当はそんなことできないのに。小屋では雨に濡れないけども、その小屋の外では雨が降っているわけで、雨が降っているという現実の中に小屋という虚構があることを忘れてはなりません。虚構は現実の中にあるわけです。

現実と虚構の区別がついていないと何が問題になるかというと、自己形成に失敗します。現実とは客観のことです。現実と虚構の間には明確な線が引けると考えているということは、現実を正しく認識できていないということです。現実がおかしいのですから、客観もおかしくなります。またそれに対して自分という主観があります。客観がなければ主観はありません。いえ、実際には主観はあるのですが、主観を主観として認識できなくなります。なので自己形成ができません。

現実(客観)と自分(主観)の区別がつかないわけですね。自分と現実が直結しているわけです。よく泣いている幼児を見て同じように泣いてしまう幼児がいます。なぜ自分に関係がないのに泣いてしまうのかというと、まだまだ成長していないために、現実と自分との境界線が曖昧で、現実で起きていることをそのまま自分のこととして処理してしまうわけです。そして普通は、わけの分からないことが平気で起こる現実と言うのもに対して、そこにいる私は一体なんだと、成長していく中で考え、色々と反発したり、もがいたりして自分というのを作っていくのですが、この過程を経ずに成長してしまった人がいます。それが現実と虚構の区別がついていない人です。

現実と虚構の区別がついていない人は現実を知らないので自分がありません。何度も書いているように、現実と自分が一緒くたになっているわけです。こういう人は自分がないので、たいてい自信がありません。しかしそれでは不安定なので認めようとするわけですが、自分がないので自分を認めることができず、ゆえに他人からの承認を求めます。また自信のない自分を他人に認めれもらわないといけないので、変な承認を求めます。例えばインスタに有名店でいかにも美味しそうな料理を食べている自分の写真をアップするような感じです。あるいは、もっと分かりやすくなると、料理だけということもあります。そしてその写真に「いいね」が付くことで、その投稿者は承認された気分になります。どこか変です。料理に対して「いいね」がついているのに、それを自分の承認と考えてしまう。これが自分と現実が一緒になっているということです。

当然ながら反対もあります。例えばYouTubeに投稿されているアーティストの動画に対して批判的なコメントがついているとします。そのアーティストが好きな、現実と虚構の区別がついていない人は、そのアーティストへの批判を自分への批判と解釈し(しかも多くの場合、批判を非難として解釈する)、批判者に対して猛烈な非難を行います。自分と現実が一緒だからこそ、自分の好きなものが攻撃されることは、自分への攻撃と同義であるわけです。またそれが直接的に生命と結びつくために、何か問題が起こるとすぐに死について考えてしまいます。あるいは、自分には何の価値があるのだろうか、というように(現実と虚構の区別のつく人は、何か問題が起きても、生きることは前提で、今起きていることに対してどのように対処するのかを考えます)。またこのような自分と現実が一緒くたになっているものを作品として表現するとセカイ系になります。代表的なものはエヴァンゲリオンで、シンジ君の個人的な決断などが世界の在り方に直接的に影響を与えます。自分=世界になっているわけです。

自分と現実の区別がついている人、つまり主観と客観の区別がついている人、つまり現実と虚構の区別がついている人は、自分と世界の間に無限の複雑性があることを知っています。そして同時に自分の有限性を知っています。だからこそ無限への憧れや依存心があるのであり、それが宗教と呼ばれます。それでは区別のついていない人はどうしているのでしょうか。それこそがまさに虚構です。現実とは完全に分断され、誰にも妨げられることのない虚構に入り込むことで、現実の理不尽なことなどから逃げるわけです。その虚構は具体的に言うならばマンガやアニメ、ラノベなどといったサブカルです(あるいはカウンターカルチャー。でもサブカルとはまた違うのでややこしいですね)。

別に宗教が正しいと言いたいのではありません。ただ宗教を信じなくても、現実に無限の複雑性があることは分かりますし、理不尽に対しても芸術あるいは学術、他にもいろいろあるでしょう。そしてこれらもある意味では虚構です。しかし現実と虚構の区別がついている人は、虚構で癒されて現実で頑張ろうと思うことができます。区別がついていない人は、虚構に引きこもろうとします。ここが大きく異なります。虚構は現実の中にあるのであり、虚構に入って逃げ切れたと思っても、実はそれは現実なのです。

このような現実と虚構の区別がつかない人というのは、どうも年代的なものがあるようです。エヴァンゲリオンが出てきたのは決して偶然ではないでしょう。だから今の40代から50代くらいだろうと思います。現実を正しく認識していないため自分がない、自信がない。だから価値基準を他人に委ねる、あるいは客観的な数字に頼ろうとする。年収の高い方が素晴らしい、偏差値は高い方が良い、高い値段だからこれは美味しい。自分ではわからないから周りに合わせる、だから小泉政権が大勝する。自分に自信がない、だから子供の名前を極端にして(いわゆるキラキラネーム)名前に意味を持たせる。現実の複雑性を理解できず単純化したがる、だから自由をはき違えてゆとり教育が失敗する。

いや~くだらんことを書きました(笑)私の妄想であってほしいですね。