「現実」という言葉の使い方に違和感がある

最近になって、ライターみたいなことをしていくんだったら色々な文章を読まないといけないなと感じ、スマートニュースをダウンロードして記事をあさっています。それで、高校生向けだと思うんですが、「SNSの事情」みたいな感じの記事において「現実」という言葉の使い方に違和感がありました。これはたぶん記事の執筆者がおかしいのではなくて、読み手に合わせているのだろうと思います。ハッキリと言うならば、今の「若い世代」は現実を捉えることができていないのではないか、ということなんです。まあ、私の「現実」の捉え方がおかしいのかもしれませんけども(笑)

現実

現実というは、まあどう言えばいいんですかね、この世界のすべてみたいな感じです。現実は一つしかありません。しかし「SNSの事情」的な記事では、現実とSNS(虚構)が同じレベルのものとして、並列的に語られていました。

私も別に虚構が存在しないなんてことを言うつもりはありませんが、しかしその虚構というのも現実であって、現実の中に虚構が部分としてあるわけです。スマートフォンの中でSNSという虚構が展開されていますが、そのスマートフォンはどこにあるのかというと、現実であって。

ただ「SNSの事情」では、現実と虚構が同じレベルで存在しており、もっと言えば、SNSのアカウントごとに虚構は異なるから(SNS以外にもゲームなど様々な虚構があると思いますが)、1つの現実と複数の虚構が横並びになっています。

客観

現実は客観です。それに対して自分の枠組みの中で考えることは主観です。客観的に考えるためには主観が必要であり、主観的に考えるには客観が必要です。

よく、ニュースは偏っているから参考にならない、と言いますが、そもそも情報というのは偏っているものです。現実の中から何をニュースとして伝えるか、という時点で既に偏っています。ここには記者なり編集者なりの主観が混じっています。これは学術論文のようなものでも同じです。論文は客観的に書かれていますが客観的な情報ではありません(客観的でも論文から個性や情熱が感じられるのはそのためだと思います)。つまり、客観的というのは情報の性質を言うのではなくて、態度の問題です。

現実は複雑でわからないことだらけです。だからこそ現実をより認識していくためにも、客観を広げていく必要があります。最初から客観を得られるわけではありません、自ら広げていくものです(勉強と研究の違いを考えると分かりやすいかもしれません)。また客観を広げていく際に主観が必要になります。つまりさまざまな視点の中でどこに注目するかという問いを立てる必要がなるからです。

さいごに

若い世代(私も25なので偉そうなことは言えませんけども)には受動的な人が多いといいます。また自分で評価をできない人も多いように思います。良いものだからみんなが良いものだという言うのが本来の在り方ですが、評価ができないために、みんなが良いものと言うから良いものだ、というように他人を借りてこなければなりません。「いいね」はその典型だと思います。

よくよく考えてみれば、現実を認識するという最初のところから躓いてしまっているのかもしれません。現実がないのであれば自我を形成することもできません。結局のところ、自己表現もできなくなってしまいます。