nancolu

一般人の個人ブログです

言葉の概念とは何か、あと仏教の考え方

言葉の概念

このブログで、「言葉の概念を持っていない人がいるのでは?」みたいなことを何度か書いたことがあって、それもあってか、「言葉 概念」みたいな検索ワードでこのブログにくる人が多いです(いつも変な記事を書いてスミマセン…、たぶんあなたが欲している情報はこのブログには書いてないよ)。

あと、「概念」というのは哲学の分野でよく使われる用語でもあるので、変に難解で崇高なものとして考えられることがあるような気もします。実際には、概念はそんな難しいものではありません。

一言で言えば、物事に共通する部分です。物事を認識するために使っているイメージのようなものが概念です。

例えば、笛で考えてみましょう。日本人としては尺八のようなものを連想しますし、西洋人としてはフルートのようなものを連想します。しかし、日本人がフルートを見ても「笛」として認識できますし、同じように西洋人も尺八を「笛」として認識します。このように、異なるものを同じものとして認識する際に使っているのが概念です。

あと、概念ってなかなか面白くて、同じものを見ていても異なる概念として認識することができます。例えば、ちくわ(穴の開いた練り物ですね)は言うまでもなく「ちくわ」ですが、ちくわの先端を口に当てて指先でちくわの表面を触ると「笛」として認識することができます。

概念というのは誰でも持っています。概念がなければ認識することができないからです。だから、私が言うところの「概念を持っていない人がいるのでは?」というのは正確には誤りで、強いて言うならば、「「概念」という概念を持っていない人がいるのでは?」ということになります。

仏教の考え方

概念について書いたついでに、仏教の考え方についても書いておきたいと思います。仏教の考え方といったら怒られるんかな?「私の仏教の考え方」ということにしておきましょう。

仏教では概念を嫌います。というのも、概念なんてものは人間が勝手に作り出したものに過ぎず、また概念を持ち出すことによって苦が生じると考えるからです。

例えば「私」という概念について考えてみましょう。「私とは何か?」の「私」です。アイデンティティですね。

自己紹介するときなんかは、誕生日や出身地、学歴、仕事などについて語りますが、よくよく考えてみると、それらは私自身のことではないことが分かります。自分が考えていることも誰かの意見から影響を受けているものですし、そこから独自に考えを発展させることもあるでしょうけども、それでも影響を受けた意見の自分の意見と思われるものを完全に切り離すことはできず、曖昧です。

体も同じようなものです。顔とか手とか足とか、そういうのが全部あって私です。顔だけを切り取って「これが私だ」と言うのは無理があります。もっと細かく考えれば、私の体はおびただしい数の細胞の総合によって成り立っていますし、またその細胞は日々の食事から摂取している動物だとか植物だとか、そういうものから出来ています。細胞は常に入れ替わっていますから、数か月前の自分と今の自分では違う体をしていることになります。

つまり、「私」というのは、「私」という個別の存在なのではなく、何らかの他の影響の総合によって成り立っていることが分かります(これを縁といいます)。「私」だと思っているものは、実は固有の「私」ではないということです(これを無我、あるいは非我といいます(私は非我だと思います))。であるにもかかわらず、「私」という概念を持ち出して、固有のものとして認識する。本来ないのに、あると認識してしまう。だから苦が生まれるわけです。苦の原因は執着だと言われますが、これは概念を形成することだと言い換えることもできるでしょう。このような概念を作ってしまうことを仏教では乗り越えようとします。例えば、禅には禅問答と呼ばれるものがありますが、問答を通して、既に自分の中に出来上がってしまっている概念を相対化しようとしているわけです。

それでは、あらゆるものは「ない」のでしょうか。そうではありません。「○○は存在しない」と主張することは、前提として概念を認めることになるからです。例えば「私は存在しない」と言えば、私の存在を否定しているけども、否定の対象である「私」という概念を持ち出しています。否定することもまた概念を必要とするのであり、執着の1つです。だから釈迦は無記の姿勢を貫きました。「この世はあるのか、ないのか。無限なのか、有限なのか」そのように問われたとき、沈黙するか修行方法を教えるかのどちらかをとります。概念を持ち出さないならば、そうならざるを得ないわけです。

(ここでは概念の話だから詳しくは書きませんが、一般的に考えられるような輪廻はあり得ません。つまり、「私」が死んだ後に別の存在として生まれ変わることはないです。輪廻すると考えるならば、輪廻する「私」が必要になるからです。しかし釈迦が輪廻を説いたのは事実で、ここで偉い仏教学者は悩みました。ただ、輪廻をこの生きている間に起こると考えれば矛盾しません。つまり、輪廻は精神と物質の連続であるということです。これはテーラワーダの説明が分かりやすい)

というわけで、仏教では「あるでもないでもない」というような言い方をすることが多いです。これを突き詰めれば空ということになるのでしょう。個人的なことを言えば、私は空という考え方はあまり好きではありません。端的に言えば、空を持ち出す必要がないからです。そもそも、空を主張したのは龍樹ですが、説一切有部に対する批判として、ああいうロジカルな主張をせざるを得なかったのだろうと想像します。