nancolu

一般人の個人ブログです

英語が嫌い

英語は概念を過信している(気がする)

マーク・ピーターセンの『日本人の英語』を読みました。日本語と英語の考え方の違い、というか認識の違いがよくわかる良い本だと思います。非常に面白かったです。

ただ、この本を読んでいて、やっぱり私に英語は合わないなと感じました。英語を誤解しているのかもしれませんが、私には英語は概念を信頼し過ぎているように思えてなりません。

例えば、冠詞は概念を明確に規定しようとしているように思いますし、名詞を中心に文章を作っていくのもそう感じる理由です。あと、時制がかなり明瞭なのもそうかもしれません。

概念はそもそも曖昧

でも、私は、概念は極めて曖昧なものだと思っています。例えば、「私」という概念について考えるならば、「私」は独立して存在しているわけではなくて、「私」以外のあらゆるものとの関係性の総合によって成り立っています。「私」について説明するのであれば、「私」はAではないものである、Bでないものである、Cでないものである、といった「私」以外のものを持ち出して、その関係についてしか説明できません。なので、「私」と「私」以外のものの境界は極めて曖昧であると思います。

あるでもないでもない

これは仏教ではかなり意識しているようで、概念というのをあまり考えないようにしています。例えば、弟子から「世界は存在するのか、無限なのか有限なのか」みたいな質問を受けた釈迦は、何も答えないか修行法(四諦)を説明するかのどちらかでしかありません(これを無記といいます)。世界はあると言ってしまえば、「世界」という概念を認めることになりますが、世界はないと言うのもまた「世界」という概念を認めることになります。なぜなら、否定をするためには前提として存在しなければならないからです。

なので本当の意味で否定するのであれば、それについて語ってはいけません。だから「世界は存在するのか」と聞かれたら、何も答えないか、認識を正す方法としての修行法を説明することになります。しいて言及するのならば「世界はあるでもないでもない」という感じになるでしょう。また、こういった感覚は日本人の認識にも少なからず影響を与えているように思います。

マーク・ピーターセンはその著書で、日本語の「なさすぎる」という表現を聞いて、「ない」は「なにもない」でありゼロじゃないのか、度合いがあるのか、と困惑した経験について書いてます。私は学者でもなんでもないので正確なことはわかりませんが、でも概念には濃度があるような気がします。「ある」・「ない」と意識的でない状態が両極端にあって、「ある」・「ない」側は概念が濃く、意識的でない側は概念が薄い、って感じです(でも仏教には「ない」にいくつか種類があるので、そこからの影響かもしれませんね、いや分かりませんけども)。

英語では、いろいろな表現があるのでしょうけども、「ある」・「ない」を明確にする傾向がある(と私は思う)ので、結果的に概念を頼り過ぎているような感じを受けるのだろうと思います。

認識

だんだん変な話になるんですが、概念は階層構造を持つとよくいわれます。たとえば、「動物」の下に「犬」とか「猫」とかがあって、「犬」の下には「柴犬」とか「秋田犬」とかがあります。

私は、概念が階層的なのではなくて、人間の認識が階層的だから、そこから出てくる思考の核となる概念もまた階層的にならざるを得ないのだろうと思います。

また、認識するためには差異が必要で、差異によって個別のものとして認識され、それを階層的に整理して体系化したものが全体的な認識になるんだと思います。

言語と神秘

階層構造を持たせることができるものは言語にすることができるはずです。そして、同時に、世界には階層構造を持たせることができない同時的並列的なものがあるはずで、これは言語化できません。この言語化できない部分がいわゆる「神秘」だと私は思います。この「神秘」がスピリチュアル(スピリチュアリティ)とか神みたいな形而上的なものなのかは知りませんけども。

そして、この語れない部分をあえて言語化しようとしているのが日本語だと思います。俳句なんかはいい例だと思います。第二芸術なんて言われたりもしますが、むしろ客観的に判断されるべきものではないのでしょう。個人的な体験であり、モノ語りではなくコトであることが重要なのだと思います。

だからといって、日本語が論理的な文章を書けないということはなく(実際に日本語で書かれた優れた論文はいっぱいあります)、非言語的な領域から言語化可能な領域まで幅広くカバーできるのが日本語だと思いますし、それだけの多様性を持っているのが日本語の良いところだと思います。

英語にも、最近は英語の俳句とかもありますし、いろいろな表現ができるはずではあるんですけども、どうしても私には概念を絶対的なものとして捉えているように見えてしまうわけです。なので、よく言われているように論理的な表現はすごいと思うんですが、曖昧な領域を英語で表現するのは難しい気がしてしまいます。おそらく、語れる部分を完全に語りつくせば、必然的に語れない「神秘」の輪郭は現れるはずですけども、でもやっぱり直接的に非言語の領域である「神秘」を言語化して遊んでみたいという欲求はありますし、そういう遊びという意味では日本語は良いと思うんですね。

概念を完全に「ある」あるいは「ない」と考えるのはあまり良くないと思うのですが、概念を全く意識しないのも人間である以上厳しいです。ここのバランスをうまくとってくれるのが日本語なんじゃないかなぁって思うんです。