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頭が良い人はなぜ頭がおかしいのか



さっき書いた記事(私の袋麺の調理方法が個性的らしい - nancolu)で書きましたが、「そんなんで食えるのか」と言われ、味の話をしているのかと思ったんですけども、別の解釈ができるかもしれません。つまり、調理法としてそれは正しいのか、キチンと食べれる状態になるのか、ということです。もしかしたら、世界法則的なものとして考えているのかもしれません。袋麺は、鍋に水を入れて沸騰させ、そこに麺を入れてゆでるものである、というような。それ以外はできない、というような。

頭のいい人はなぜ変なのか

この文脈だと私の頭が良いみたいになりそうな気がするけど、そういうことを言いたいわけではないです。

かなり前に「社長の頭はおかしい?なぜ社長はめちゃくちゃなのか - nancolu」を書いたんですけど、かなり曖昧なことになっているので、もう少し具体的に書いてみようと思います。

まず、「頭が良い」についてですが、成果を出すことができる、程度の意味合いです。

頭が良いとは言えないような人(必ずしも頭が悪いことを意味しません)は、たいてい常識的です。そして常識の範囲で物事を考え、行動します。常識というのは、既に明らかになっていることです。明らかになっており、多くの人はそれは正しいものであると判断している状態です。多くの人が正しいと考え、行動に移すため、つまり、同じように動く人が多くいるわけですから、成果は出にくいです。

頭が良い人はある意味では非常識です。常識の外にいる、といった方が正確かもしれません。常識の外にいるということは、多くの人が知らないところいる、多くの人が正しいとは言えないところにいる、ということです。常識の外における行動は、常識的な人からすれば、その内容について判断することができません。なので、その行動が不自然に見えるわけです。また、常識の外は人が少ないです。つまり、やっている人が少ないため、それが常識の方向(利益)に重なれば、それは非常に大きな成果として判断されることになります。

これは勉強と研究の関係で考えるとわかりやすいだろうと思います。勉強とは、人類が既に明らかにしていて、自分はまだ知らない事柄について学ぶことです。研究とは、人類がまだ明らかにしていないことを明らかにすることです。勉強が教科書を読むことであるならば、研究は教科書を作ることです。研究には発見がありますが、勉強には(個人的なことは別にして)発見はありません。初めて見つけたことが発見であり、2回目は発見とは言えないからです。頭が良い人は常に研究をしています。頭が良いとは言えない人は常に勉強をしています(あるいはしないけども常識の中にいる)。既に明らかになっていることを何度繰り返しても成果としては認めにくいでしょう。

そもそも頭が良い人は存在しない

たぶん、そもそも頭が良い人は存在しないのだろうと個人的には思います。教育やメディアなど、環境的な要因によって、頭が良いとは言えない状態になっていくのだろうと思います。そして、相対的に、そうではない人が頭が良いと言われるようになるのでしょう。

本来、やろうと思えばできることが、環境的要因によって世界法則として認識されてしまうことで、できないものとして判断されてしまうのだろうと私は思います。もちろん、それには利益もあります。例えば、いちいち考えなくても行動することができるようになります。でも、それによって本来できるはずのことが見えなくなってしまうこともあります。例えば、机は買うものであり、木材を集めて自分で作るという発想ができないというような感じです。袋麺の作り方もそうです。「こう作るのですよ」と説明されたら、それ以外の作り方ができなくなってしまう。できないのではなく、そもそもそういう発想がない。

なぜこうなるのでしょうか?端的に言えば、主観と客観の区別がついていない、混同されてしまっているからです。これはつまり、現実と虚構の区別がついていないということでもあります。これについては前から書いていますが、教育の在り方とメディアの発達(特にネット)の影響が強いはずです。